| 母(義母)闘病記 |
一昨年(2002年11月)から我が家の一員として加わった母が先月(2003年11月半ば)から長女の米寿の御祝いにって、姉の住む沖縄県宜野湾市へ遊びに行って暫く経ったある日の事でした。義母の顔色が極端にすぐれなく成ったらしく医療経験の有った母の妹は、知り合いの病院を尋ねてくれた。直ちに精密検査を実施したところ胆嚢管の詰まりが原因で黄疸の症状が出たと言う事だったらしいのだが、その検査で肝臓に発症していた癌も同時に発覚、肝心の当人は何食わぬ顔で居た様でしたが周りの者としては慌てないはずもなく直ぐ様、母の妹から義母の娘である私の妻に大まかな内容を告げ、翌日の飛行機で那覇空港から東京へと移送された。
当日2003年12月3日の午後4時に、私も早々に仕事を部下に託し妻や子供と4人で羽田空港に向かった。定刻では、午後6時30分の到着予定だったので、その時間に間に合うのか気が気ではなかったが、私の想像以上に高速道路は空いていて予定より40分〜50分近く早く空港の駐車場に乗り入れる事が出来た。
到着と粗同時に、妻の従弟から携帯に電話が入り、予定していた日本空の便から急遽変更になりANA(全日空)130便・那覇16時55分発 → 羽田19時05分着になったと一報が入ったと言っても30分程度しか変わらないので、すんなり聞き入れる事が出来ました。定刻より2分遅れで到着した、130便の手荷物がコンベアーに乗って、ゆっくりと回り始めた。降り客も我先にと荷物に群がっていたが母の姿は一向に見えずにやきもきして居たところ長男坊の優樹が遠くからゆっくりと歩く母の姿を逸早く見つけ私に報告に来た。
荷物を手にした降り客の姿が殆ど途絶えた頃に、やっと私の目で確認する事ができたのでした。その姿は出発前とは明らかに異なり小さく見えました。とぼとぼと歩く姿に次男坊の翔悟が祖母を庇いたいと言う衝動から降り客専用の自動ドアーから飛び込み進入を試みたが、係員に取り押さえられ仕方なく義母の出て来るのをじっと待って居た。
三つ程の手荷物を台車に載せ替えゆっくりとした足取りで出口に近づいてきた。電話越しに大まかな話は聞いて居たものの、想像以上に痩せ細って帰って来た姿に家族皆の声が無かったのを、はっきりと記憶して居る。
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翌日4日に沖縄の医師から渡された紹介状を手にして自宅から比較的近くの国立癌センターに妻が母を連れて行った。慣れない状況に妻は医師から告げられた内容の殆どを把握出来ずに居た様だったが、そこは百戦錬磨の医師だけあってか私の知りたい内容を事細かに記して持たせてくれた。母も実の娘と一緒で心強かったのか、のんきに医師の話を、他人事の様に聞いて居たと言う事でした。
病は気からと言う様に、くよくよして居たら治る病気も治らないって言いますが、母の様に我が身に降り掛かって居る災いに、そこまで無関心で居られるのにも、いささか問題が有るような無いような?翌週の12月8日(月曜日)に入院する事になり妻は入院に必要な物を書き出し準備に掛かった。取り敢えず今の黄疸の原因である胆嚢管の処置をしてから次の段階に移ると言う医師からの提案に私としては頷くしかなかった。
母も少々緊張ぎみの様だったが昭和4年生まれ、しかも沖縄の戦火を生き抜いて来た義母にすれば大した事態じゃ無い様であった。元々信心深い母は、千葉県野田市にある有名な神様にお祈りをするのが日課の様で、そして月に何度かは、足を運んで居た様でした。そんな神様を信仰する人々は苦悩から逃れたいとか人々を助けたい等と言った純粋な気持ちを持った人々が殆どの様に私には、思えて居た。
そして、そんな仲間達から激励の手紙や電話が引切り無しに届くのでした。応対する私としては、信心をするとか、したいと言う事を一度も思った事の無い人間だけに、悪気無く熱心に電話を掛けて貰っても、少々有り難迷惑に思える事も幾度となく有ったが、こんな状況だけに邪険にも出来ず、いささか苦労させられた。
そんなこんなして2週間程経った2003年12月の半ば過ぎ、もうすぐクリスマスと言ったある日、主治医より電話が入り母の容体で話が有ると聞かされ翌日の12月20日に家族4人で母の入院先である柏国立ガンセンターへ向かった、私の側からして見れば、最悪の事態を想像するしか出来なかった。
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妻や私は、言葉を発する事無く国道16号線の道筋をひたすら見つめるだけでしたが、そんな重い空気を子供達も知ってか知らずか気になる母の容体を気に留め口を開いて来た。一瞬、戸惑いは有ったものの事実を曲げる理由も思い当たらず、医師から伝えられた状況を事細かに、そして解かり易く伝えた。渋滞さえしなければ片道30分足らずの道のり話の内容を伝え切る間もなく病院に到着した。妻と次男が4階の集中治療室に義母の姿を見に行った。母は、そんな状況を知ってか知らずか静かに眠って居た様でした。主治医に、面談室の様な小部屋に案内され、今の状態を事細かな説明をされた。
そして、その内容としては、極めて体力が低下して居る中、悪い事に肺炎を併発して居ると言う事だった。医師は、回りくどい言い方等の配慮なんかを一切せず単刀直入に切り出して来た。現段階でお母さんの、助かる確率を数字に置き換えるとしたら、多分50パーセントぐらいだと思うと聞かされました。
暢気に考える私としては、助かる確率も50パーセントあるって考え方をしたので差ほどに重苦しい気分には成りませんでした。一般の方からしたら、なんと言う不心得な性格だと非難を浴びそうですが事実は事実なので仕方の無いところである。
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そして2日程経った23日に再び召集がかかり、同じく家族4人で病院へと向かった。さすがに今度ばかりは危ないのかなって色々と考えを巡らせていた。前回同様に子供達からの質問に今度ばかりは母の容体もかなり心配な状態かも知れないって私の心中を伝えた。そして私の予想は、的中していた。医師の話によると肺炎を併発させた菌やウイルスの特定が非常に困難な状態だと伝えられた。
通常の菌に因る肺炎の場合、抗生物質等の投与で粗回復するのに対し今回の場合、考えられるのがウイルス性の肺炎の発症が考えられるとの見解でした。いずれにしても極端に体力が低下しているところに肺炎を併発、しかも原因の特定に2〜3日を要するとの事で実際のところ、その2〜3日の間、母の体が耐えてくれるか非常に心配な状態ですと聞かされた。
確かに痩せ衰え切った義母の姿からは回復の二文字を重ねて考える事など想像さえ付きませんでした。今までに遭遇した事のない、こう言った状況だけに、ただ戸惑うばかりでした。私自身パニックとまでは行きませんが、かなり気が散漫になって居た事を、はっきりと覚えている。
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世間は、クリスマスイブと言う事で昔程では無いにしろ浮かれて居る様でした。仕事をしながらも母の容体が気に掛かるのと同時に最悪の事態を想像しない訳も無く。今思えば、人として恥じるべき空想に取り付かれて居たのでした。と言うのは義母が亡くなると言った事を前提に自分の頭の中で筋書きを展開し始めて居たのです。
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本日は、お忙しい中、義母(はは)の葬儀に御列席頂きまして誠に有難う御座いました。本日、本葬儀の喪主と致しまして御挨拶申し上げます。義母は、昭和4年4月5日、沖縄県宮古島に5人兄弟姉妹の次女として命を受け目まぐるしい時代を乗り越え。ただ人の為に尽くす事だけを生き甲斐に身をこにして働き通した生涯だったと私は思います。働くとは、傍のものを楽にする事と聞いた事が御座いましたが、まさにそんな生き方を貫き通した人生だったのではないでしょうか。けっして奢らず、そして何より人を貶す事の無い清らかな心の持ち主で御座いました。こうして皆様に御見送られ旅立つ義母では御座いますが、きっと笑顔で皆様に有難うって言って居られる事と思います。甚だ簡単では、御座いますが義母(はは)との御別れの御挨拶に換えさせて頂きたいと思います。本日は、本当に有難う御座いました。 |
と言った簡単な文章の下書きとも思えぬ、内容を自分勝手に思い浮かべて居たら、ふっと罪悪感とも言えぬ妙な感覚に襲われて気付くと涙が止め処も無く溢れ出していました。なんて事を考えて居るんだと我が身を戒めるがの如く、自分自身を責め続けたのでした。
暫くして涙も出切ったのか溜息混じりに我に戻って、こんな考え方をしたら絶対にいけないんだと自分に言い聞かせて居るうちに、次第に気持ちが楽になり、どう言う訳か母の病は、きっと良くなるんだと言う澄んだ気持ちに変わって居ました。私が母に頻繁に顔を見せるのも、心配を掛ける様な気がして病院までは頻繁に出掛けては居ましたが、妻や子供達には母に顔を見せる様にって言い聞かせ私は妻や子供達からの報告を受けるだけで暫くは母の容体を窺う事にして居ました。クリスマスの雰囲気から、すっかりお正月を迎える雰囲気に変わり、2004年の新しい年を迎える事が出来ました。 |
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そして何とも言えない閃きに近い物が、私の中を駆け巡ったのでした。それは母の容体が良い意味で急変すると言った発想でした。そして元日の朝、お正月も返上で主治医が私達家族に吉報をもたらせてくれたのです。主治医からの内容を、そのまま伝えるのも難しいのですが医者としての観点から、九分九厘生存は、望めない状態に有ったとの事でした。
そして、こう言った状態から助かった例が今までに無いとの事で、まさき奇跡と言っても過言では無いとも言われました。今まで、強気を貫き通した私でしたが胸の奥から熱い溜息にも似た胸を締め付ける様な安堵にも似た例え様の無い熱い物を感じました。更に七草を迎え松飾りを外し、そして晴れ着姿の二十歳を迎える若人が一人二人と街角を行き交い母は冗談話に目を輝かせ笑えるまでに元気になりました。
まだまだ予断の許さない状態だとは、言われて居ますが、あれほどの山場を乗り越えられた母に、私たち家族は、よく頑張ったね、有難うと言う気持ちで一杯でした。そして1月19日、一ヶ月程様子を見るとの事で、仮退院を許されました。とは言っても、体から管を下げた状態の母を、我が家で看病し切れるはずも無く自宅から程近い病院に、取り敢えず入院をしてもらう事にしました。 |
食事の制限が特に有るわけでもないので家族皆で食卓を囲む事も可能になりそうです。して母が家の直ぐ近くの病院に仮入院をした翌日あたりから次男が風邪を引き始め続いて妻も追い掛ける様に風邪を引いてしまいました。当然の様に私も風邪の症状が出始め高熱との戦いが始まりました。最後に長男も風邪の症状が出始め家族全滅と言った状態になり、母のお見舞いに行けるような状態では、有りませんでした。
次男は1月19日の月曜日から学校を休み続いて長男は、21日の水曜日から已む無く登校を断念しました。木曜日頃には、次男の風邪の症状もすっかり良くなり金曜日には登校出来る程でした。遅れて風邪を引いた長男の方は回復するまでに2日程余分に床に付くしか有りませんでした。 |
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妻は母の容体を気にしながら子供達の面倒も見なくてはならず更に妻自身も熱や咳に悩まされながらの看病で、大変だったんだろうなって私は、つくづく感じて居ました。勿論私も風邪で苦しんだのは言うまでも有りませんが何しろ忙しい体で仕事を休むとか抜け出すなんて事が許されない状況で市販の風邪薬で状況を乗り切るしか有りませんでした。
さすがに39度から40度を回ったあたりでは仕事をこなすにも辛いものが有りました。ただ今回の場合、家族中風邪の症状だけでインフルエンザを発症しなかったのが、せめてもの救いのようでした。そして咳は、少々出るものの風邪の症状から脱出出来たので2週間振りに母のお見舞いに家族揃って行く事が出来ました。
妻以外の顔を見るのも久し振りだったので、母の表情も嬉しそうに見えました。そして何より家の近くの病院に移った事で気持ち的に余裕が出来たのか以前に比べ義母の食欲が出て来たらしく転院前に比べると、はるかに太って居て、お見舞いに行った私達にとっては、とても嬉しく思えました。そして2月3日の節分を迎え暦の上では一足早い春のようです。鬼は外、福は内・・・・・
鬼は気の持ち様で何時でも追っ払える様な気がしますが福に限っては日頃の行いで随分と左右されるんじゃないかなって感じがして居ます。 |
そうそう節分を過ぎて間もなくの頃、こんな文章を記して居ることを息子の優樹に初めて明かしたのでした。暫くパソコンに見入って居ましたが、どうも空気が変なので様子を窺ったところ当人の中でも色々と思いを駆け巡らせて居た様で感極まっていた様子でした。私は、何も気付いていないって雰囲気を装うのに精一杯でした。
その後、今まで綴って来たこの文章を自分のホームページに公開してみようかって思っている事を優樹に伝えたところ病を題材に掲載するのは、どうかって見解の様でしたが私の考えとしては、この様な文章を掲載したからって営利目的に考えられるって事は無いんじゃないかって説明をしたのですが、優樹としては、どうも合点のいかない様子でした。そしてホームページへの掲載に関しては、暫く様子を見る事にしました。 |
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2月15日(日)今日は、久し振りに母が家に戻る事を許されたとの事で妻は何時になく室内の清掃に気合を入れて居た様子でした。そして、お昼チョット前に妻が母を迎えに病院に出向いたのですが誰がどう話を取り違えたのか仮退院の手続きが済んでいないので今日の退院は認められないとの事で翌月曜日に延期になりました。
母の顔は見て居ませんが多分がっかりして居たんじゃないかって想像いたします。2月16日の朝、無信心の私がたまたま神棚に目をやったところ何時も母がお供えしている専用のコップの中の水が随分と減っているのに気付き、初めて水を足したのでした。こんな事で、母の病が良い方向に向かうとしたら容易い事だと妙な解釈自分に言い聞かせて居た自分に、気付いて居ました。 |
2月17日(火)本当に久し振りの帰宅を許されたらしく妻が母を迎えに行ったらしいのですが我が家に戻ったばかりの母は、じっとして居られなかったらしく私の部屋と入れ替えをした一階の新しい母の部屋の整理に余念がなかったそうでした。子供の話では、お腹から出ている胆汁の管を二度ほど抜けたって笑い話の様に話していたそうです。私が仕事を終え帰宅した時には再び病院に戻ったとの事でした。
働き者の母は、どんな状況に置かれても人の為や家族の為に働いてしまう、献身的性格のようです。とは言っても今回の様な重大な病と闘って居る最中には、チョット困りもんです。そして暫く経って再び柏のガンセンターに入院、以前に比べ比較にならないほど体力を取り戻していた母に主治医も驚いていた様子だったと聞かされました。そんな母なんですが食事の内容に少々不満があるらしく、この間まで入院して居た病院の食事が口に合っていたらしく肝心の古巣の病院の食事が全てにおいて砂糖甘いと嘆いていました。
そして私もそんな母を見舞いに久し振りに病院を尋ねたある日の事でした!何時もの様に砂糖甘い食事に不満を抱きながら、朝食と葛藤していたらしく・・・・・
そして想像も付かない行動を起こしたのでした。それも有ろう事か! 野菜の煮物を給湯室に持ち込み、お湯で洗って来たと言う事でした、そして何食わぬ顔で醤油をさっとかけて食べたとの事でしたが考え様によっては、そこまで自己主張を出来るまでに心身共に回復したのかなって改めて感心致しました。 |
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今年の冬は例年に比べ随分と暖かかったとの事で当然の様に桜の開花も例年より一週間から十日も早いとの事でした。例年もだったら入学式の頃に桜の花びらがはらはらと舞い散るのに今年は卒業式に間に合っちゃいました、それはそれで個々の心の片隅に思い出として刻まれるんじゃないかなって思いましたけどね。
そんな時期に母の孫である我が息子二人も、それぞれに中学そして高校へと進学致しました。長男の方の高校進学に対して母は随分と気に掛けて居た様子だったので長男坊には時間が有った時には、お婆ちゃんに顔を見せて色々と話をするようにって聞かせて居ました。下の子は下の子で中学校への進学とボクシングの両立が出来るかどうか随分と気になって居る様子でしたが、まっ何とか中学校に通い始めました。
お婆ちゃんが家の近くの病院に入院して居た頃には孫なりの発想からそれぞれに、お婆ちゃんのお見舞いに出掛けて居たようでした。上の子は、地元の高校を受験したので受験日当日の帰りには、その足でお婆ちゃんに報告に行って居たと言う事が最近になって聞かされました。そして長男とは正反対の行動派の次男坊はジムの帰りに駅の改札を出て家とは反対の方向に位置する病院に向かう事も頻繁に有ったようでした。
学校での授業を終えて、電車で片道一時間程かけてジムに通い、その足でお婆ちゃんのお見舞いに行く事って、私が想像する以上に大変な事だったと思います。そんな小さな応援団二人に日々エールを送られて母の病も良くならないはずが無いって私は自分の心に投げかけて居ました。
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2004年3月28日(日曜日)二週間振りに母のお見舞いに行って来ました、つい先日までは子供たちが春休みだった事もあって妻と一緒に頻繁にお見舞いに行っていた様でしたが僕がお見舞いに行ったのは手術をする一週間程前でした。母に何か食べたい物がないかって尋ねたところ鮪のお寿司を食べたいってリクエストが有り、すぐさま買いに出掛けたんですが探す時って意外に見付からないもので国道16号線を暫く走ったらダイエーの看板を発見、広い惣菜売り場をウロウロしたら、お目当てのお寿司を発見、お婆ちゃんは勿論、子供達の分も購入そして大粒の甘そうなイチゴを2包みも合わせて購入、急いで病院に戻りました。
お寿司を探している方も気が気では無かったんですが、待つ方も相当やきもきして居た様子でした。エレベーターホールのすぐ脇にあるソファーを陣取りチョット早めの夕食を始めました。下の子の大好物ばかりに目を光らせて居ました、でも今日ばかりは、お婆ちゃんが未だ手を付けてないので、さすがに先に手を出せずに・・・・・ お預け状態でした。
そして、お婆ちゃんの一緒に食べようの合図でお寿司やイチゴを無心に頬張って居ました。そして母も久し振りの味に嬉しそうな表情を浮かべてましたが、そんな表情もつかの間で、きつい山葵の洗礼を受ける羽目になるとは、想像もしていなかった様子でした。目頭を抑えながら久し振りの刺激に声を上げて笑うのでした。 |
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そして平成16年4月5日(月曜日)いよいよ癌患部の完全摘出手術が遂行されました妻の話では六時間に及ぶ大手術で手術の一週間程前から医師との綿密な打ち合わせが毎日の様に続いたと報告を受けました。打ち合わせでは、患部だけの摘出手術と患部とその周りの部分・転移の恐れの有る部分全体を切除すると言った二通りの手術方法を挙げられました。
入院当初の体力だったら今回のどちらの手術も出来なかったと思うって聞かされました、でも奇跡的な回復で、今回の様に大きな手術に望む事が出来て良かったと話してくれたとの事でした。家族の側からしたら、今後の再発が一番気に掛かるところなので出来たら転移の恐れを有する部分の全面摘出を御願いしたいと言う趣旨を伝えたところ医師側の考えも全く同じだったと伝えられ少々安堵感を抱きました。 |
そして手術当日、手術開始の一時間程前に大まかな説明を受け手術に望んだとの事でした。そしてそんな大手術でしたが思いのほか順調に事が運んだらしく医師の口から昨年末の、あの状態から本日の手術に至るまで更に手術の成功結果を考えた場合、誰にも想像も出来ない生命力そして奇跡との事でした。
医師団の話に因ると再発の危険性は限りなくゼロに近いとの事でした。そして話の中でも、こう言った事例を耳にした事が無いとの事でした、冗談じゃ無く奇跡って正に、こう言った事を刺すんですねって食い入る妻に話して居た様でした。母には申し訳ないと思いましたが立会いを妻に任せたままで何時も通りに私は仕事に向かいました。
昨年末の事態を考えたら今回の手術を私は、それほどの大事に思う事が出来ませんでした。宣告から早四ヶ月、目まぐるしく事が展開し、そして一番の山場である癌患部の全摘出手術・・・・・ そして、その手術実行の当日が何故か母の75回目の誕生日でした運命の悪戯などと耳にしますが、ここまで事が都合よく運ぶと運命と言うものが決まって居て人間は、その運命に身を委ねるしか出来ないのかなって、つくずく感じました。 |
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当然の様に我が家でも皮肉にも取れる母の手術の日が大きな話題になりましたが面白い事に長男の説では、誕生日は生まれ変わる日だと言うのです。確かに長男坊の言う通り死の渕をさ迷った母が奇跡の二文字で事態を乗り越え、新たに生まれ変わろうとして居るのは、紛れも無い事実で確かに長男坊の言う通りに誕生日は生まれ変わる日だと言う説が強ち戯言にも思えませんでした。
術後の経過も頗る順調で・・・・・ゴールデンウィークに入って最初のお見舞いに行ったのが5月4日、前日が何の関係も無いんですが私の誕生日でした! 本当の事を言うと、すっかり忘れて居たんですけどね!?
それはそうと、お見舞いに行った丁度その日の朝にお腹から出てい管を取り外す事が出来たって嬉しそうに話して居ました。手術後何日かは、発熱の繰り返しで主治医の話では、肺炎に感染する事が一番怖いって話して居た様でしたが、そんな容態も日を増すごとに段々良くなって二週間程で病院内を歩き回れる程に元気になったとの事でした。元気になれば、行動範囲も大きくなって・・・・・
当然トラブルにも遭遇し易くなるのが当たり前の話しで、椅子の角に管を引っ掛けては管が抜けたり勿論お腹に直結しているので結構お腹が痛いて自慢げに言ってました。
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そんなこんなで奇跡の回復をみせている母に主治医から退院できるって告げられたって聞きました!喜んで居るのは、本人は勿論ですが・・・・・ 本人以上に子供達が喜んで居ました。普段は当たり前の様に暮らしている家族ですが、たった一人欠けただけで、こんなにも心に大きな穴を開けてしまうものだとは考えた事も有りませんでした。
普段は口喧しい家族でも掛け替えの無い家族って事をつくづく痛感していたようでした。していよいよ明日160日振りに正式に退院です! 妻は、今日一日、部屋の掃除に余念がなかったのは、言うまでもありません。暫くは、通院をするようですが母の元気な姿を見るかぎりでは、癌と戦ったって感じには思えないのが私の本音です。 |
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こうして皆さんに報告出来るのも癌に打ち勝った母が居たお陰です、いわいるハッピーエンドってやつですかね?母(義母)に頑張れとエールを送って下さった皆様に心から御礼申し上げる次第で御座います。もう書き加える事は、多分何にも有りません! 面白い続き等が有った時には、余談ですが・・・・ のページや書斎のコーナーに、追伸と言う形で掲載したいと思います。最後までお付き合い下さって本当に有難う御座いました、皆様のご健康を心よりお祈り申し上げます。 |
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